『グラン・トリノ』『SPACE BATTLESHIP ヤマト』

本日、ピザを食べたら歯が欠けた(笑)。


うっそ〜w
金城一紀の"帰ってきた「映画日記」"が終わってしまった。
残念。しかたないか。


土曜日、ヘアカット。
切ってくれる美容師さんはオイラより10だとか10以上歳若い人たちなのだが、揃いもそろって仕事に対して真面目で熱意をもって向上心に溢れていて、薄汚い大人となったオイラは「どーしてオイラはこーなったのか」などと考えたりするw。
やれやれw。


本日日曜日、ジム。
ストレッチ、筋トレ、ランニングマシン。
数日前からフクラハギが張っていたので、約40分で4.19kmでおしまい。
体重91.67kg。
またまた増え傾向。昼を若干食べる様になってしまったせいだろうかw。


潰したと思ったらゾンビのように甦る。
またも東京都議会が『青少年育成条例改正案』通そうとしている。
性描写の激しいマンガを嫌悪するのはかまわんし、公に批判する事もかまわんよ。
それが自由というものだから。
その好き嫌いになんらかの根拠を与えたいという欲求が法制化に繋がっているのが大問題。
性描写が嫌い、という個人的嗜好では他人を説得するにははなはだ弱いが、法律で禁じられているからと言えばどうどうと自分の嗜好がお墨付きなものとして強制力を持ち得る。
自分の息子のオナニーの現場を目撃したくないという母親の意気地のない願望がこの法律を後押しする。
オナニーの現場を目撃したら問答無用で頭をドつけばいいじゃないの。
「このエロむすこ。エロい写真見やがって。こういうのは大人になってから見やがりなさい」
それで済むだろう。
こんなくだらいない事の為に法律なんてつくるなよな。
そもそもこの判断を下すのがどういう見識をもった人間なのか分からない。
前の法案が通りそうだったとき、都の職員かなんかが永井豪に対して、
「あなたの作品は大丈夫ですから」
と、言ったとかw。
アウトだろう永井豪(笑)。どう考えてもw。
彼の若い時の作品なんて悪書の代表として無茶苦茶な糾弾をされていたんだから。
こんな調子の奴らに文化のなにが分かってるというのか。
百害だけだ。
猪瀬直樹が
「こんなくだらないものを本当に守るんですか?」
などとあるエロな漫画を例にだしていっていた。
アホか。
とても作家の発言とは思えぬ。
多くの読者が読む前に規制したら、その作品がくだらないのか、そうでないのか分からんではないか。
大人でも子供でも最初はオッパイだのオマンコだのちんちんだの衝撃的な部分に目を奪われるが、それは一時的なもので、それ以降それらが出ていても、読むに値するかどうかは個人で決めて行く。
そこで本当に下らない作品を描いた作家は淘汰される。
そういう過程を経ないで、猪瀬ごときのようなヤツがオッケーを出したものだけを読まされるようになった時、文化としては実にくだらない状況になる。
エロ本だって見続ければ、それがおっぱいが出ていたってつまらない作品だというのが分かってくるものだ。
言っておくがエロ漫画を見た人間が即性犯罪を犯すなどということを本気で思っているのか、この法案の推進者は。
子供の未来を守るって錦の御旗のように言ってるけどね。
宮崎駿が言う通り子供の未来なんてのはくだらない大人なんだから。
その子供時代の一瞬を大人が見た綺麗なものだけでなく、隠れてこっそり覗き見るような体験をする自由というものも大人として与えるべきではないのか?
オイラは石原慎太郎は大嫌いですけど、ヤツがかいた小説すべてを否定するわけではない。
『完全な遊戯 』をかいた石原がなぜこんなバカな法律の片棒を担ぐのか。
『完全な遊戯』の登場人物なんて単なるエロよりも酷いことをやってるよ。
アホな子供に影響を与えるという意味では単なるエロ漫画よりも害になるかもしれない。
しかし、その小説を読んで自分の内面と向き合う人だっている。
それともなにか。
石原は自分の小説とエロ漫画は違うと思い上がっているのか。
漫画は視覚的な要素があるから衝撃が多いので規制の対象になるのも仕方ない、などという意見もある。
つまり、小説にはもう人心を動かす力は無く、漫画の方が文化としての力をもっているという事だな(笑)。
一部の小説家は文字の力で読み手の想像力を喚起させて、文学の力を信じている者だっているのだ。
筒井康隆であるとか、三島由紀夫もそうだ。
漫画は描かれたもの以上のものはなかなか見えてこないものだが、小説で喚起されたイメージは実態化できないほどのおぞましくも背徳的なものになることだってあるのだ。
そっちの方が危険ではないのか。
愚にもつかない奴らによる検閲が法制化されたら、それが覆る事はまずない。
ここが踏ん張りどころなのだ。
漫画や小説のエロよりも、非実在ではない、実在する幼児のポルノを摘発する手だてを考えろ役人ども。


『岳 13』
今回も全編が傑作。
住所不定なセイントがいることを許された場所。
『寅さん』みたいなものかw。
だけど『寅さん』じゃ人は死なないからね。
人が滑落したり遭難するような山に住んでいる三歩。
いくら経験値が違うと言えども死の危険は三歩にだってある筈なのに我々は彼を一種のスーパーマンのように認識していると思う。
単に今の所山に愛されている男だということにすぎないのではないか。


『セラフィム 2億6661万3336の翼』<限定版>
今から15年ほど前、アニメージュ誌で『風の谷のナウシカ』の連載の後を受けて始まったコミック。
原作が押井守。作画が先日亡くなった今敏。
いまの今まで単行本化されなかったのは、色々理由はあるだろうが、連載が16回で終わり事実上の未完となっていたからだ。
13回目以降は押井のクレジットは"原作"から"原案"に変わった。
つまり押井が作品から手を引いたということだ。
なにがあったかは推測するしかない。
邪推でいえば<今敏も部分的にいっているのだが>、進まぬ押井の原作に対し今敏が挑発的にエンターテイメントの方向にブレてみたせいなのかと思う。
もっと邪推すれば作品のなかで出てくる犬、バセットハウンドが凶暴に人間ののど笛に噛み付いたり、銃で撃たれたりしたカットが描かれていた。
押井がバセットを凶暴に描くとは思えないのでこのあたりで今敏との齟齬が生じたのではないか。
つまり、原因は犬w。
今敏については画力はあってもアシスタントをしていた大友克洋のエピゴーネンでしかないというのがオイラの当時の見方。
『セラフィム 2億6661万3336の翼』を描いていた時は初監督作の『PERFECT BLUE』の頃。
『PERFECT BLUE』は今でも観るのが辛くなるような、ハッキリ言えば大嫌いな作品。
そんな作品しか作れないような人間が、痩せても枯れても押井に意見するなんてのは思い上がりもいいとこだなと思っていた。
今敏については今でもオイラはそう思っている。
彼の作った映画でオイラが観た内では『パプリカ』が面白かったぐらい。
そんなわけで他の作品も意識的に観ようという気はまるでない。
この『セラフィム 2億6661万3336の翼』については連載のごま切れではなく、通して読んでみるとまた違った印象で、結構面白く感じられた。
コミックは限定版を購入した。付き合いのあったアニメーターの献辞であるとか対談が小冊子にまとめられていた。
ほぼそれが目当てでわざわざ高い限定版を買ったようだもんだ。
押井も一言あってもよさそうなものだが、それはナシ。
両者に埋め難い溝があったのかなと思ったりする。


『グラン・トリノ』
ネタバレあります。
iTunesストアで購入。
購入の理由は宇多丸が
「『グラン・トリノ』を観ない奴は映画ファンを名乗る資格なし」
と言っていたから(笑)。
この映画、昨年同じくイーストウッドの映画である『チェンジリング』のすぐ後くらいの公開であった。
『チェンジリング』は悪くはないけど、まあ『ミリオンダラー・ベイビー』ほどの衝撃も受けなかったしということで、その後のイーストウッドの映画をなんとなく敬遠したのだ。
『グラン・トリノ』は俳優クリント・イーストウッドの最後の作品という触れ込み。
この触れ込みを見て観に行かないヤツは......という事なのだと思う。
イーストウッドはジョン・ウェイン以降のハリウッド映画史そのものだからね。
しかし、オイラ別段昔からイーストウッドが好きだったわけではないし。『ダーティー・ハリー』なんてTVでチョコチョコ観た程度なのでちゃんと観たうちにはいらないし。
あの手のバイオレンスがイマイチ好きではなかったんだよね。
このジジイ、もしかしたらすごいかも、と思ったのは『許されざる者』から。
だからかなり遅れてきたイーストウッド・ファンであるといえる。
で、iPod touchの小さな画面で観たよ『グラン・トリノ』。
結果、劇場で観なかった事を激しく後悔した。
傑作。
もしかしたら現時点でのイーストウッドの集大成かつ最高傑作かもしれん。
まずスター俳優が出ている事の肯定的なメリットというものをまざまざと見せつけられた。
そのスター俳優とは言うまでもなくクリント・イーストウッドに他ならない。
物語自体は非情にシンプル。極端に言えば字幕が無くてもなんとなく分かるような内容なのだ。
スター俳優のメリットというのは説明を省けるという点である。
それは観る側の共通認識でイーストウッドがこれまでどういう映画に出てきたかというのが分かれば演出上の説明を省く事ができる。
例えばイーストウッド演じるコワルスキーが上着の内側に手を入れるシーンがある。
ショルダーホルスターに手を伸ばすような描写だが、コレ、まさに『ダーティーハリー』のハリー・キャラハンじゃん(笑)。
これで説明無しでこのコワルスキーがどんな男なのか分かってしまう。
それから普通の映画では、多分画にならないとしていたであろうアジア人俳優を多く使う事ができる。
アジア人を何人使おうがイーストウッドが出れば場が十分に持つという。
この辺りはイーストウッド自身も冷静に考えている部分であったろう。
なんといってもこの映画の出ずっぱりの主要キャストはアジア人なんだから。
イースウッドが主演するという条件でなければ出来ないキャスティングだ。
日本のつまらない車がもてはやされているアメリカ。
そのなかにあって古き、良いと信じられていた頃のアメリカの終焉につくられたフォードのグラン・トリノ。
その車を大事に乗り、家の前には星条旗をかかげ、芝生の手入れを怠らない、働き者の保守親父がイーストウッド演じるコワルスキー。
そんな頑固親父なもんだから身内である息子や孫にまで疎まれる存在。
イーストウッドの映画で『ミリオンダラー・ベイビー』がそうだったが、最悪の身内というのが出てくる。
身内より身近な知人の方が信頼できるという構図。
『グラン・トリノ』に出てくるコワルスキーの身内も最悪だったが。
更にコワルスキーの隣に越してきたのがモン族の一家。
悪態をつき唾をはくコワルスキーを見て、モン族のばあさんも唾を吐くのがいい。
唾を吐かれたら取りあえず吐き返せというのは両者を対等の立場に持ち上げる手段ではある。
しかしこの身内にも心を許さないコワルスキーが、見ず知らずのモン族の隣人に対して心を開いて行く。
まあコワルスキーはメシで釣られたと言う事もできるが(笑)。
普段一人でビールを呑みビーフジャーキーを齧っているような生活から、言葉は分からないが大勢の人がいるなかでうまい飯を喰うという事の幸せに目覚めた。
飯をキーにしたのは絶妙だね。食べるという事はすなわち生きるという事だから。
それからモン族の人たちがなにかにつけコワルスキーを気にかけ家に押し掛け、なにかしらおいて行く事を彼自身がしだいに許して行く事になる。
コワルスキーも彼等にどんどん優しくなっていく。
アジアの人間とも仲良くなれるんだと今更ながら気づいたのであろう。
しかしそれによってコワルスキーの過去が彼を苦しめ始める。
妻の遺言であるにも関わらず教会での懺悔を頑に拒否するコワルスキー。
彼が従軍した朝鮮戦争での地獄は神の存在すら無にするほどの経験だったのだ。
モン族の隣人と同じような顔をした民族の兵士を殺したという自責に苛まれる。
モン族の少年タオに向かって言う台詞
「"人を殺してどう感じるか"?この世で最悪な気分だ。それで勲章などもっと悪い。相手は降参しかけていた。お前のようなガキだった。そいつの顔をあの銃で撃った。毎日思い出す、その気持ちがわかるか?」
こんな気持ちを抱えている人間に神や宗教は本当に安らぎを与えられるのか?
戦争だからしょうがなかったと思考停止できないのがコワルスキーなのだ。
『ミリオンダラー・ベイビー』でもそうだったが、イーストウッドの映画には教会が出てくる。
この宗教的描写というものが肯定的なものなのか否定的なものなのか、ちょっとよく分からない。
その辺りはもうちょっとオイラがつっこんで考える所だと思われる。
『グラン・トリノ』では散髪をしたり、服を新調したり、身体を清めたりなどのような死の準備的な儀式の一つとして教会での懺悔が挿入されている。
十字架に張り付けられたジーザス・クライストのように死ぬコワルスキーは、ある意味宗教的な死のイメージを被せているのだろうが、深い意味としてオイラには受け止めきれてないのではないかと思っている。
コワルスキーはある策を練ってタオの姉を暴行したモン族の家に行く。
銃も持たずに、あたかも持っているかのごときふるまいをし(このあたりが前半の懐に手をいれるというのが上手く伏線になっている)相手に撃たせる。
丸腰の人間を蜂の巣にしたら彼等はそう簡単には刑務所から出て来れない。タオ達一家は平穏に暮らして行ける。
同じ民族のタオに殺させたら、同じ民族内での憎しみの連鎖は止まらない。
病に蝕まれ、最悪な事態を招いた幾ばくかの責任を取る事を考えたらコワルスキーが一人で決着をつけるしかないのだ。
カッコよすぎるね。
とにもかくにも、こんな死に様なら本当に俳優としてのイーストウッドの最後にふさわしすぎるではないか。
鏡に向かって、写った自分に「誕生日おめでとう」なんていうイーストウッドを誰が想像したであろうか。
ここまでやられたら、これが最後でも良いと思っちゃうよ。
コワルスキーの心は身内ではなく、アジアの少年に託された。
アントニオ猪木的に言えば「闘魂注入」というやつかw。
タオという少年の顔が実にいいんだ。
姉のスーもオイラ好みだw。
それはさておきw。
自分の作ってきたものはアメリカだけではなく、人種おも越えて伝わる筈だという自信や希望なのかもしれん。
この映画、宇多丸がそうであったように、ある種のクリエイティブな人間なほど作品のなかに埋め込まれた"バトン"の存在を察知し、そのバトンを誠実に受け取ろうと思わせる、そんな映画なのではないか。
むろん"バトン"とはイーストウッドからのものほかならない。
最後に、毎度思うのだがイーストウッドの映画の照明はすばらしい。
明と暗を意図的につくったシンプルな照明。
タオがコワルスキーのガレージに忍び込んで立ち回るときの揺れた照明の効果がすばらしい。
すべてがシンプル。
間口は広く、そして観終わった後は自分の立っている場所が一段高い所に上った気がする。
そんな映画である。
今年の新作ではないが、今年観たなかではベスト3に入るだろうね。


『SPACE BATTLESHIP ヤマト』
ネタバレあります。
先週の金曜日MOVIXさいたまで鑑賞。
昨年の大晦日の『ガキつか』のスペシャルのCMで始めて本作の映像を目にした。
一年ずっと楽しみにしていた本作。
期待は高まっていたと言える。
結論を言えば、取りあえず楽しめた、だ。
楽しめた。面白かったと言っても良い。入場料代は十分に楽しめた。
もっと言えば山崎監督の前作『BALLAD 名もなき恋のうた』よりも楽しめた。
あの最も志の低い昨年の『復活編』なんかよりも1000倍ぐらい楽しめたw。
本作の感想で言えばこれで十分。
他人に気軽にオススメだと言える映画だ。
すくなくともオイラにとっては。
以降蛇足である。
この映画が楽しめたのはある程度これまでの『ヤマト』という作品を知っていたからという意味である。
つまり『ヤマト』という作品の約束事をすべて了解した上で楽しむ映画だということだ。
というのは製作者は明らかに、意図的にそれをやっていると思うからである。
なによりもヤマトのデザインを<多分>変えられなかったことが本作の物語を構築する上で時代性を獲得できなかった一番の原因であろうと思えるのだ。
なんと言ってもいまだにヤマトの船底に第三艦橋があるのだ(笑)。
この艦橋ってアニメ版の時からなぜあるのか謎であった。
最初のTVシリーズでは最低2回は第三艦橋が無くなってるんだけど、次の週には何喰わぬ顔で復活してたりとゾンビのような第三艦橋。
なんでここが狙われるかと言えば答えは簡単、ヤマトの船底には武装がないから(笑)。
確かに日本海軍の戦艦大和は船底は海のなかだけど、宇宙戦艦は360度すべてをさらしている訳だ。
それをまったく考慮せずに船底に武装が無ければ弱点にもなるわな。
今回の本作においても、第三艦橋を見殺しにする所があるけど、あれって船底に武装があれば防げたのと違うのかなw。
だから第三艦橋は軍の規律を破った者とか、素行不良な者だとかが島流しにいくところ。「悪ことすると第三艦橋におくるよ」っていわれていたのかもしれん(笑)。
更にヤマトのなかの重力について。
宇宙船でありがなら艦内でクルーはフワフワを浮かずに歩き回り、ヤマトが傾けば皆ものにしがみついて傾きに耐え、古代進に至ってはワープ中に森雪とセックスしてナカダシをするという暴挙にでた(笑)。
つまりであるヤマトは人工重力発生装置なるものを装備し(作品中何の説明もなかったが)、その発生源は船底である第三艦橋にあったのではないか(笑)。
その他、地球の命運をかけるのにクルーが日本人だけってのはどーよ、とか、結局第一艦橋が一番安全だった、とか、宇宙船の格納庫で実弾を盛大に発砲するというのはどーなのよ、とか、ガミラスとかイスカンダルが憑依した時の目の光り方ってショボくない、ってとことかね(笑)。
かなり揶揄した形の半笑いな物言いになってしまったが、これらの事って監督の山崎貴が気にしてない訳ないんだよね。
この人は『ジュブナイル』とか『リターナー』を作った人でSFについて分からない人ではないのだから。
ヤマトのデザインは変えられないというのが至上であったのは間違いない。そうすると現在では明らかにおかしいと思われている艦内の重力問題も今までのヤマト・シリーズを踏襲せざるをえないわけだ。
『ガンダム』の富野由悠季の最大の発明は宇宙での無重力を表現した点だと思っている。
動くグリップで移動する事によって、歩かせるというアニメーションで最も地味で難しい事をしないですみ、尚かつ宇宙での環境というものを的確に表現できる。
予算の問題や技術的な問題があるのは分かるがそれをやらなかった事により、確実に時代性を獲得できなかった。
あの『アバター』の冒頭の見事な無重力シーンを観た後だ。
それから古代進をはじめクルーの様子が楽観的すぎに見えてしまったりとか。
特に古代は自問の独り言が多い(笑)。
これは明らかに表情の情報量の少ないアニメーション的な演出方法で実写でそれをやると全体にもたもたした感じになって画的に鬱陶しい。
これはもしかしたら古代進役の役者に見せ場を多く作るためのものだったのかもしれないが。
物語的にも本作は一番最初のTVシリーズの『ヤマト』と劇場二作目の『愛の戦士達』を折衷したものになっていて、クライマックスがブレてしまっている。
つまり最初のTVシリーズの『ヤマト』は沖田艦長の死をクライマックスに持ってきて盛り上げていたのだ。
第二作ではヤマトの特攻と古代と森雪の甘美な死というものがクライマックスになっていた。
本作ではクライマックスがヤマトの特攻なので、沖田艦長の死というものがものの見事に宙ぶらりんになってしまっている。
オイラと山崎監督は同世代。
多分ほぼ同じものを観てきた世代だ。
だから『ヤマト』というアイコンが『スターウォーズ』なみに重要なもので、自分が手がけるチャンスがあったら絶対に手に入れたい気持ちも分かる。
感動したであろう劇場二作をどうしても入れたかったのは分かる。
しかしである。根本的な事を言えばデザインを変える事も出来ずに周辺の世界観やデザインを少ししかいじれない状況で、今この時に『ヤマト』をやる意味がどこにあるのか?と開き直ってもよかったのではないか。
山崎監督は夢のような映画を演出できて多少は満足だったかもしれない。
しかし、この映画CG的(たぶんCGだけではなく模型も使っていると思うが)に観る価値があるところはせいぜいヤマトが地中から飛び出してくるところぐらい。
それ以外は見せ方もクオリティもアメリカ製のSFXやCGを見慣れている目で見ればお粗末なものだ。
多分CGも内容も海外にもっていったら失笑をかうであろう。
オイラが満足したのは間違いないが、それはあくまでも『ヤマト』という約束事と日本の映画の状況をある程度理解しているからにほかならいない。
本作は山崎監督の『リターナー』ほどには至っていない作品である。
しかし、『ヤマト』を作った山崎監督にしてみれば憑き物がとれたであろう事は間違いないので、激しく次作に期待したい。


あ、来週ちょっとだけ『龍馬伝』の総括を覚え書き程度にやっておこうかな。
by 16mm | 2010-12-05 22:26 | 映画・DVDの感想など。 | Comments(6)
Commented by chata at 2010-12-05 23:05 x
>『グラン・トリノ』
究極のナルシスト映画とどこかで見ました。監督兼俳優の到達点をみせつけられた感じです。
タオん家が蜂の巣にされたとき、正直「え、そっち?」と思いました。
直接復讐しないのは向こうの文化なんですかね?

>第三艦橋
なるほど、今までもお約束というかツッコミどころだった訳ですな。
ぱっと見で狙いどころというか弱点ですからね。なぜあんなとこにバックアップをとってたりするのだろう?w
Commented by 16mm at 2010-12-05 23:38
■re:chataさん
俳優だもの。そりゃナルシストっすよ(笑)。しかもスーパースターのイーストウッドですから究極がついて当然(笑)。
言われてみればコワルスキーの家が銃撃されなかったのは解せないですね。

>ヤマト
少なくとも天地シンメトリーな同じような武装をすべきだと思いますが、そうなるとヤマトではなくなるし、ヤマトをやる意味も無くなる。
だからそのあたりはあまりツッコまずに昔ながらの設定でやったのでしょうね。
どちらにしても昨年の志の低い『復活編』よりは十分に面白かったんですからね。
Commented by 朽駄 at 2011-07-18 20:09 x
朽駄です。ようやっとヤマト観ましたよ。イイも悪いもありません。

あの戦艦大和をモチーフとした巨大な宇宙船に乗っているという感覚が伝わって来なかった。
第一艦橋、格納庫、艦長室、機関室、食堂のセットと、あとは精密な外観のCGにより描写されて
いたけれど、あの大和級の宇宙船が飛んでいるんだぞという状況を全く感じられなかった。
主砲が索敵プロセスをとばし、クルッと回転して、バシュッと発射されるシーンで
とても残念な気持ちになりました。
大和なんだからさぁ、大事な大事な主砲を撃つシーンは5,6分かけてでも重厚に描写しなければ
いけないと思う。それだけでも船の巨大さが伝わるんじゃないかと思うんですがね。
昔から感じていた、波動砲の照準の問題。
これは波動砲発射の際、発射桿を握る人間が船体の姿勢制御を行うべきだということなのだけど、
今回それをやってくれたことに感動した。と言っても島が操縦桿を古代に渡すだけだけど。
本当はターゲットスコープの内容が、艦首の動きと連動している訳だから、バーニヤが細かく
反応して目標の動きに合わせて第一艦橋も細かく揺れるシーンなんて欲しかったんだけど。
Commented by 16mm at 2011-07-18 21:29
■re:朽駄さん
鑑賞お疲れさまでした。
現代で『ヤマト』を実写で復活させる、と聞いた時には本当に血が騒いだもんですが、やはりデザインなどを含めてその当時のままやる事がいかに難しいかという事が露呈した感じでしたね。
作ってる方もどこかで負け戦かもしれないとおもっていたでしょうが、やはり企画に『ヤマト』の文字が踊ったら掴みたくはなりますわな(笑)。
今回の事でやっとヤマトを埋めたままにしておこうという決心が色々な面でついたのではないかと思います。
Commented by 朽駄 at 2011-07-19 23:50 x
朽駄です。言いたい放題で申し訳ありませんでした。
他の作品なら兎も角、ヤマトだけはどうしても要らぬ口を挟みたくなるんです。
きっと気がつくと、言い足りない事を口走ってしまうと思います。

「埋めたままにしておこうという決心」上手いこと言いますね。

私の場合「埋めたまま」というより「ぶつけたまま」の方がしっくり来ますが。
また要らんこと言いました。
Commented by 16mm at 2011-07-20 08:38
■re:朽駄さん
>ヤマトだけはどうしても要らぬ口を挟みたくなる
非常にわかりますね(笑)。
今から思うと『ヤマト』ってオイラがはじめて接したSFだったかなと思います。
同世代の多くがそんな感じなんじゃなかったでしょうか。
正直『ヤマト』を観たあとにロボットアニメがどうしょうもなく幼稚に見えてしまったこともありますが。
まあ、それは勘違いでしたけどw
劇場アニメ版の『復活編』がディレクターズカットと称して再復活するようなことをキャラクターデザイナーが言ってましたが、いい加減にしてほしいですなw。


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