『G戦場ヘヴンズドア』

描いた漫画を世に問いそこが一種の戦場であるとしたなら、そこで勝利をおさめた者だけが開く事が許される聖域。
その聖域というのはなにも富や名声などというものばかりではなく、たぶん創作者が作り出した世界が自分以外の人間に認めてもらえたという事の快感、自我の拡大というものが独りよがりのものではなかっという安心感。
『タイタニック』でオスカーを受賞したジム・キャメロンが「世界の王だ」と叫んだのはそのような理由だったのかもしれない。
ひとりぽっちで始まる創作という行為は、結局の所自分以外の他者(それもなるべく多くの)に認めて貰うという事に行き着くのではないか。
他者に認められなくても良いなどというのはやはりやせ我慢でしかないのだと思う。

なるほど、漫画で創作したものが世に受け入れられる人間というのはホンの一握りに過ぎないであろう。
しかし、実際はその作者一人力で作品が作られたわけではない。作家一人の力では作る事も広める事も難しいのだ。
厳密に言えば作家の後ろに見え隠れする編集者とアシスタントの存在を抜きにして作品やその作者を語る事はできないのかもしれない。
しかし、編集者もアシスタントも一種のビジネスの延長で作家と関わっており、その対価に見合う働きをすれば良いだろう。
通常はそれで十分な筈だ。

「もしお前がもう一度、オレを震えさせてくれるのなら、この世界で一緒に汚れてやる」

作家が戦場を生き延び"ヘヴンズドア"を開けるには、上記の台詞を他者に言わせ、思わせるような何か(作中では"人格"という言い方をしていた)を自分以外の他者に感じさせなければならない。
同じ時期に読んだ『大東京トイボックス』の台詞を引用すれば
「魂は合ってる」
という事だろう。
ある意味"先生"などと言われる一握りの創作者は他者のプライドを捨てさせ、一緒に汚れる事によってのみ存在しうる。
一緒に汚れていても、名が残るのは"先生"だけなのは言うまでもないわけだが。

と、ここまで書いたが、この『G戦場ヘヴンズドア』では町蔵はもちろん、鉄男でさえ漫画を描いて"ヘヴンズドア"は到達しえなかった。
町蔵は父親程の才能がなかったという事であり、鉄男で言えば漫画を漫画以外の目的(父親への復讐)に使った為である。

しかし、最後の最後で二人の前で同時に"ヘヴンズドア"が開かれた。
考えてみれば"ヘヴンズドア"は扉でしかないのだ。その扉を開いたからこそその先に行けるわけだ。
二人が邂逅した場所が約束の地であり、町蔵が初めて作品を自分以外の他者に理解された瞬間であったと思う。
一緒に手を汚す。一緒の塹壕で戦う。そして、一緒に世界を手に入れる。
そんな他者を見つけた時に"ヘヴンズドア"は開かれる。
誰にも理解されないのではないかという孤独と不安を抱えた者達が、最後には一つの目的に向かい助け合う事で成長し、最終的に自分のあるべき場所を見つける。
絶望を提示しつつも、最後は幸せを感じさせる大団円であった。
by 16mm | 2007-05-04 23:45 | | Trackback | Comments(2)
Commented by chata at 2007-05-05 00:33 x
町蔵が泣いてるシーンは、だいたいσ(゚∀゚も号泣してました。
あーまた読みたくなってきやがったぜ!読むぞー!w

担任のみっちゃん先生や町田都が『プラスチック解体高校』に
ルミコが連載中の『少女ファイト』に登場してるので、興味があったらゼヒd(。ゝω・)。゚
Commented by 16mm at 2007-05-05 00:46
■re:chataさん
イノさんという人物は、自分が作家になれないとまがいなりにも認識しているせいか一番オトナだと思いました。
そう言うわけでオイラの泣きツボ(笑)は、イノさんと都先生ですかね。
町蔵の成長物語としては、彼の顔がどんどん良くなっていったのが印象的でした。


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