思考がロックする

近道を歩きたがる人々1

当方頭が弱いので論点がズレてしまっているかもしれませんがご容赦の程。

極論であるが、日本人において「恥の意識」と礼節さえ備わっていれば、取り立ててモノを考えなくてもいいのではないか?と私は思っています。

「恥の意識」と礼節を知る事は、最低限他人にあまり迷惑をかけないで生きていこうという事の意識化である。
人が共生して生きて行く上での最低限の部分さえもっていればそれ以上の事を無理に考える必要があるのだろうか?
あるかもしれないが、皆が皆それなりにモノを考えている社会になったら、お気楽に生きていけないだろうなと自堕落な私は思うのである。
そういう意味で私は考える力より、「恥の意識」と礼節を意識する事の方が大事だと考える。
それさえできていれば、後は本を読もうが映画を観ようが有名な絵画に触れようが、ゲームをしようが、それらに極端にのめり込んでも各々の趣味の問題である。
つまり、ごく一部であろうネットワークゲームのプレイヤーの程度の低さなどは単なる礼節の欠如であり、本を読む読まないとは関係ないのだと考える。
むしろゲームを取ったらかなりキケンなゾーンのバカなんてのもいそうだ。
社会で何か問題がおこると、その時代で最も力を持っていて、つけ込むスキのあるメディアが生け贄の羊にされてしまうのは世の常であり、今はゲームがその役を担っているのだと思う。
迷惑な程やたらと社会正義とやらに燃えている大人に限って、「貴重な時間をゲームで潰して云々」などという言い方をするが、ではその貴重な時間とやらを何をして潰せば有意義なのか具体的に言ってみろと言いたい。
本ばかり読んで引きこもって、人生について考え過ぎて悲観して道連れに殺人をおこす可能性だって人間にはある。
ゲームに考える力を養う事ができないとするならば、読書でそれができるなんてのは幻想でしかないと私は思う。
それこそ入試をゲームごときと同じにみるなと言うなら、私はゲームを入試ごときと一緒にするなと言い返すだろう。
ゲーム、映画、小説等に力があるとすれば、ある人間にモノを考える切っ掛けを与えるという程度にすぎない。
そして、それらに触れる事によって得られるものというのは必ずあると信じている。
ゲームだけをやってたってモノを考える奴は考える。
人を殺すようなヤツは何を見ても、見なくてもコロスのである。

思考力というのは訓練によって獲得できるという事に異論はありません。
ただ、それは人生を楽しく生きれるかも知れない為の道具、おまけみたいなもので、身に付けたい者のみが身につければ良いのだと思う。

「恥の意識」と礼節というのは言うまでもなく、しつけの問題である。
そして、更に問題なのは「恥の意識」と礼節と、そして思考力の落ちている私のような世代の人間が親になって、その子供が成長しつつあるという事実だ。
by 16mm | 2005-02-23 13:27 | 閑話 | Trackback | Comments(1)
Commented by 疾風 at 2005-11-14 02:47 x
遅くなっちゃったけど、お返事書きました(遅すぎw
http://yaplog.jp/hayate-log/archive/142


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