●哀悼:高見のっぽ良い写真で良い顔だなあ。
訃報の報は2023年5月10日(高見の誕生日)であったが実際死去したのは2022年9月10日、心不全のため88歳没。
小学校の授業の一環で見る事ができたTV番組のなかでほぼ唯一子供達全員の興味を引いて集中させたのは『できるかな』をおいて他にない。
NHKではその他にも『理科』とか『はたらくおじさん』などの番組も授業で観るものとしてあったが、当然だがそれらの番組は"教育"がついて回る。
やはり第一義が"教育"であるという印象は避けられないためか、『理科』とか『はたらくおじさん』も子供が観ていても楽しい番組になってはいるが最終的には勉強のためだよなあと勉強嫌いなオイラなどはげんなりしていた。
しかし高見のっぽの『できるかな』は違っていた。
いや、違っているように見えた。
『できるかな』は勉強ではなく楽しさを教えてくれた。
それはなにかモノを作るということの楽しさだ。
授業で言えば図工の授業になるんだろうが、『できるかな』に出てくるようなモノ作りは授業では行われない。
それでいて材料などは誰がどこでも手に入れられるような段ボールとか画用紙のたぐいだ。
『できるかな』で作られたものは子供でも手軽に作れそうであり、更に学校で作らされるモノよりも遥かに魅力的に思えた。
誤解を恐れずに言えば『できるかな』で行われていたのは堅苦しい教育などではなく、楽しい遊びだ。
モノを作るという楽しい遊びを大人がそれこそ楽しげに真剣にやっていたからこそ当時のガキどもは熱狂したのだ。
『できるかな』で何かを作るというのはこんなにも楽しいものなのだというモチベーションを得て後々漫画家やイラストレーターやその他のアーティストやパフォーマーになったり、なるきっかけになった人は大勢いるだろう。
図らずも『できるかな』はモノ作りを行う才能ある人間を増やしたと言っても過言ではない。
何かを作ってそれを見せて喜んでもらうというモノ作りのサイクルを『できるかな』はオイラたちに植え付けた。
それとこれは大筋とは関係ないがオイラが高見のっぽと同じ考え方を共有できていたことが心からうれしくなった。
衷心よりご冥福をお祈りいたします。
■西田昌司不当な差別について記者が西田昌司に問うたら
「この種の問題が出てきたのは、ロシア革命以降のね、マルクスの共産主義ね、の思想の延長線上に出てきたのは、事実です」とかなんとか。
この西田の発言って分かりづらいし、こいつの目的が反共を言いたくて途中の説明をすっとばして乱暴に過激なことを言ってるにすぎないんだけど、
西田の言ってることは後述する井上 純一の
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』にだいたいの意味が描いてある。
念のために言うが井上の著作が西田を肯定しているわけではない。
井上は日本にもたらされたある現象の結果を描いているにすぎない。
ところでこの西田昌司ってヤツ
こんなこと言ってるのね。
オイラからすると典型的な厨二な野郎にしか見えん。
ちょっと人が言わないような過激な事を言うと知的であるとか人より知識があって頭がいいと思われると思い込んでいるバカ。
で、 Wikipedia調べで最近意外だったのがこのバカが
西部邁と親交があったという話。
・・・
いやオイラも心情的に西部がトコトン好きだった、ということはないよ。
それでもさあ、なんで、よりによって西田なんだ?って思うのよね。
皮肉を効かせてバカにしていたというのならわかるんだがねぇ。
●電動昇降デスク
先週楽天で電動昇降デスクFlexiSpot E7を7万円で購入。
プラス、Amazonで
京セラ(Kyocera) 旧リョービ ドライバードリルキット 鉄工5mm 木工10mm FDD-1010KT 646051A 【すぐに使える14種類のビット・ソケットなどが1パッケージ】 軽作業のネジ締め・ゆるめ・穴あけ 最大穴あけ能力(鉄工)5mm・(木工)10mm ネジ締め能力3.8mm 最大締付トルク6.4N・mを5,342円で購入。
プラス、Amazonで
HAODEMI デスクチェアマット【大判サイズ160×140cm 】厚さ4mm 床保護マット ダイニングマット ゲーミングチェア 床保護 傷防止吸着 床マット 騒音対策 滑り止め カット自由床暖房対応 (ブラック)を
4,384円で購入。
で、土日でなんとか部屋に設置できた。
いやいやとにかく電動昇降デスクが重いこと重いこと。
脚と天板合わせて約50kg。
天板も脚も梱包のままなんとか二階の部屋に持ち込めたが、キツかったぁ。
本当に買うこと考えている人は作業は二人以上でやった方がいいよ。
オイラは辛うじて一人でやったけど。
あまりに重いので階下にいる母親がビビって天井から落ちてくるなどと文句を言っておった。
一応ネットで調べて一平方メートルあたり180kgまで耐えられるように建築物は設計されていると言って納得させた。
本当かどうか知らんが(笑)。
この電動昇降デスクFlexiSpot E7に決定したのは付いてくる天板のサイズが1400mm×700mmという室内の空いているスペースのギリのサイズであったためだが、一応設置はできたものの何事もギリギリのサイズにするのは考えものだと思った。
隙間ギリギリでやると一応机は入るんだが設置する時に自分が作業するスペースが必要だったと言うことを設置するまで気がつかなかった(笑)。
それでもなんとかズリズリとひきづって移動したりしてことなきを得た。
この時に購入したHAODEMI デスクチェアマット4mm厚が功を奏したというところか。
この電動昇降デスクを選んだのは
このYouTubeを見たからだ。
型式は少し違うが組み立ての要領などは参考になった。
同一メーカーの型番違いの解説などが非常に分かりやすかったので参考になった。
オイラが購入した昇降デスクは昇降モーターが格脚にひとつづつある計二つのモーターなので重量がある。
モーター二つだと重量はあるが一つだと片方のモーターから軸を出してもう一方の脚のの歯車を回すという機構になるようで組み立てが若干面倒になるという。
それと脚のネジ留めについてだが、天板に穴を開けることを想定して電動ドリルも購入していたんだが、マニュアル通り組み立てたら自分でわざわざ穴をあけることもしないで済んだ。
しかもこの組み立ての半分ちょいぐらいが六角穴のボルトを使用していたので電動ドライバーの出番があまりなかったのよ(笑)。
まあ、電動ドライバーの使い方にも慣れていないので手締めでできればそれに越したことはなかったけど。
一応、メインマシンのMacBookとモニターの設置は終わった。
前の机よりも1.5倍ぐらい広いわけだが
すでに一杯になりつつある。
TV用のWindows VAIOを右と左のどちらに置くかで迷っている。
机の設置も大変だったが、電源のコードの取り回しも大変。
なんせ机の高さが変えられるのでコードが引きずられないように長さを保っておかなくてはならず延長コードを買い足したりした。
そもそも立って作業するために買った昇降デスクだが、今まで使用していた机と椅子が高さの変更ができずに非常に疲れる体勢で作業していたんだが、今回机だけでも高さの変更ができるようになり、椅子が高さが変えられなくても割と良好になった。
しかも電動で昇降できるというのはその時々の体調や気分で楽に自分に合った微妙な高さ変更ができるのがいい。
なのでしばらく座ったままでもいいかなとは思うが、ためしに立った状態で作業したらやはり脚が疲れる。
ので、スタンディングチェアをそのうち購入予定。
椅子の脚のスペースが心許ないのでやはり一本脚のスタンディングチェアを購入だな。
今週末までにWindows VAIOとその他のセッティングを完了させねばな。
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』AmazonでKindle版購入。
行動経済学という聞きなれぬ用語が出てくる。
たまたまであるが後述する『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』でもその言葉がセリフとしてでてきていて、ちょっとした予習になった。
分かりやすくはあるのだが、自分が思い込んでいた考えを修正するのに時間がかかる。
更に問題は本書で書かれている事が本当かどうかというのを自分でも検証しなくてはならない。
というのは当たり前だがすべて著者の井上純一の考えがオイラの考えとイコールではないからだ。
まあそのあたりは井上の『逆資本論』でカール・マルクスの言葉を借りて
"全てを疑え"
という言葉を額面通り受け取って自分でも検証するべきだと感じる。
まあ時期的なこともあるが
今はどうだかわからぬが、オイラは井上ほど河野太郎を信頼してはいないんだけどね。
『中国嫁日記(1)-(8)』AmazonでKindle版購入。
井上純一が中国人の年下の嫁を貰って生活する様を描いている。
マンガで描かれている井上も嫁の月(ユエ)さんも非常に魅力的で愛おしいキャラクターとして描かれている。
だからこそそんなキャラクター達が酷い目に合うととにかく憤りを禁じ得ない。
二人が妊娠初期で子供を失ったり、一巻から登場していた井上の友人でありビジネスパートナーに巻の途中で裏切られて裁判沙汰になったりと心底気の毒に感じた。
オイラなどは結婚もしてなければ子供もいないので子供を失った夫婦の悲しみというものが本当の意味で分からないのかもしれない。
が、それでも本作で描写されていた夫婦の悲しみは切々と伝わってきたよ。
井上を裏切った友人もそう。
単行本一巻の段階で井上の10年来の友人だった男が5巻目で碌でもない人間であったことが発覚するなどオイラも描いている井上でさえ思ってなかった。
裁判中とのことで詳しくは描かれていないが、はっきり言って井上との共同会社の金を横領(作中では横領などとは書いていないが)し、自分の私物を会社の金で買いまくり、借金し、その借金を井上に払わせるような事までになり。
いったい井上がこんな目に合わなきゃならんような業があったとしたらどんなものなのか?
信じていた友人にここまで裏切られる辛さたるや。
そんな辛さとは逆に井上の力になる友人知人親類縁者の多い事。
ひとえに井上と嫁の月(ユエ)さんの人柄によるところだろう。
この夫婦は本当にお互いがお互いを思いやっているのがわかるのだ。
人の不幸は蜜の味とは言うし、この夫婦に起こった様々なひどい有様は正直読み手の興味をそそる。
しかしね、それ以上にこの夫婦の幸せな日常を見ることが読んでるオイラにも幸せな気分にさせてくれる。
ある種の希望かね。
誠実に親切を心がけて思いやりを持っていれば不幸を上回る幸せが巡ってくる、というね。
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』AmazonでKindle版購入。
バラモン左翼とビジネスエリート右翼の存在というものがでてくる。
バラモン左翼というのは教条主義的な感じというか、なんとなく宮崎駿がインタビューで答えていた内容みたいだ。
オイラとしてはバラモン左翼というのは多くの大衆が意識的になって到達する目標のようなものと思っていたが、本書でいうバラモン左翼とビジネスエリート右翼はそのどちらも主義主張は反対でも大衆というものから乖離しているのは同じだという。
オイラは大衆はバカであり愚民であるから少しでも意識を高く持たねばならん、という一方で、社会的政治的な事を考えることが苦手だったりする人に無理強いして考えろというのは傲慢であるとも思ってる。
個人の生活よりも人権問題や反差別、原発問題や環境問題を意識しなくてはならないのだろうか?
多くの貧乏人が豊かになろうと思うのは罪なことなのだろうか?
人権問題や反差別、原発問題や環境問題が巡り巡って個人の生活に繋がっていくのは分かるが、数年先の未来よりも明日の仕事の方が大事だという言葉も否定しきれない。
前述した西田昌司の差別問題に対して
「この種の問題が出てきたのは、ロシア革命以降のね、マルクスの共産主義ね、の思想の延長線上に出てきたのは、事実です」
とかなんとか言ってるのは、日本の左翼が東欧諸国の共産主義の敗退と資本主義の限界を通して経済や労働問題では運動が成り立たず人権問題や反差別、原発問題や環境問題を意識しなくてはならなくなったということを言っている。
西田が言うのは共産主義憎しで説明を乱暴にすっ飛ばした言葉なのだ。
本書は行動経済学、自己責任や保育士不足のような具体的な問題などのを提起しつつその解決方法までも提示している。
そして中学高校で習った政治経済の知識の延長を本書で深めることもできる。
『ザ・ファブル The second contact(7)』AmazonでKindle版購入。
単行本の表紙折り返しの作者の文章で
ケイスケサカモトという人のプロモーションビデオの絵コンテを『ファブル』の作者である南勝久が描いた、と。
なんでも南はケイスケサカモトの『あなたと元気に暮らした町』という楽曲が気に入ってプロモの絵コンテを描くとかって出たとのことだ。
非常にしみじみと良い楽曲だと思うが、
そのメイキングの2:56とか3:16などに開いた口が塞がらないほど見覚えのある人物が(笑)。
すげえな南勝久って実はそんなに画に興味がない漫画家だと思っていたんだが、まさに二次元のキャラクターにクリソツな実物、ではないw、実物にそっくりでまんまな二次元キャラクターを作り出していたんだな(笑)。
似せ方に感動したよ(笑)。
『新装版 零士のメカゾーン』AmazonでKindle版購入。
オイラが小学生の時に毎日新聞の別冊みたいに木曜日に送られてきた『くりくり』という新聞があった。
比較的子供向けのものでアニメや映画のネタなんかもあり、そのなかで松本零士の"零士のメカゾーン"というコーナーがあり、毎週松本零士が自身が描いたメカのイラストとともにその蘊蓄が語られるものであった。
メカの画はおそらく松本の戦場マンガシリーズで描かれるメカの画よりもディティール細かく、もっと言ってしまえばマンガ画よりも丁寧に丹念に描かれていたと思う。
それを毎週興味深く読んでいたんだがそののちそれらがまとめられて本二冊で発売された。
当然購入して読んだ。
戦車、戦闘機、銃、ヘルメット、双眼潜望鏡、鏃、手榴弾、戦闘機の照準器などなど、様々な兵器の蘊蓄を松本零士が直々に解説するというのは魅力的であった。
今回電書で買い直して再読。
情報的には古くなってはいるが松本のメカに対する思い入れの印象は全く変わらず懐かしい感じ。
兵器に対する蘊蓄のなかで人間爆弾"桜花"についての件が胸をうつ。
松本自身はこの"桜花"を扱った作品を描いた事があるそうで、それをひどく後悔していると。
今現在のタカ派を自認して好戦的な奴らってこの"桜花"という兵器がどれほど悪辣でサイテーな兵器であるという事を認識できるのであろうか?
この兵器を肯定的になってるような人間は碌でなしだろう。
オイラは宮崎駿よりも前に松本零士から兵器というものは人間が作り出した美しくも愚かな道具であるという認識を得たんだと思う。
『アオイホノオ(28)』
AmazonでKindle版購入。
本巻かなり面白かった。
ホノオくんがアシスタントを雇ってのやりとりが面白く感じられた。
それにもまして漫画情報誌『ぱふ』の編集の一人が漫画化志望でよりにもよって(笑)ホノオくんのアシスタント希望だったのが
藤島康介であったというネタ(笑)。
オイラとしては島本自身の作品でまさか「江川達也」の名前が出てくるとは思わなんだ(笑)。
そういう意味では気に入らない相手であっても事実であれば「江川達也」という名前を自分の作品に出すという態度は公平であり大人だなと感じたよ。
『首』予告編観たら楽しみでしょうがない。
同じく時代劇の『座頭市』と同じ感じだったらどうしようと思ったが、予告編を観る限り果てしなく重厚に思えた。
城のヴィジュアルや合戦のモブの演出など今までの北野映画にないような金と時間をかけまくって、まったく手を抜いているようには見えぬ。
構想30年というのは伊達じゃないね。
昔から時代劇やりたいとは聞いていたけど、その当時は信長や秀吉や家康などは遠景にあってそれらの大将を遠くで見つめる百姓の話にする、なんて言ってたと思うが・・・。
とにかく今年の秋までは死ねない(笑)。
『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』先週金曜日109シネマズ菖蒲。
若干ネタバレあり。
流石に公開直後なのでネタバレはしないようにする。
というよりもネタバレ云々よりも前作から月日が経っているので頭の中でうまく辻褄が合わせられないところがあり、詳しく感想がかけないという事が正直なところ。
一つだけネタバレになるが本作は所謂第三期と呼ばれるシリーズの前章となる。
つまり第三章で伏線もなく唐突にあらわれた物語の謎を繋ぐミッシングリンクを描いている。
はやい話がなぜ常守朱は勾留されていたのか?という顛末が明らかになる。
そういう意味では唐突に訳の分からない状況になっていた第三期よりも本作は分かりやすくとっつきやすいものではあったと思う。
ところでふと思ったのだが、本作の主役の一人である常守朱についてである。
常守は作品の世界観上どんな過酷なストレスにさらされても犯罪を犯す可能性がある心理状態や性格傾向になることはないという極めての特殊な体質だということになっている。
その人間の心理状態や性格傾向の負の値を計測した数値を犯罪係数といい、人間の犯罪係数を測る機能を持つ演算システムを「シビュラシステム」という。
これによって犯罪の傾向のある者を犯罪を犯す前にある時は拘束しストレスをケアして犯罪係数を問題のない数値に戻すか、或いは犯罪者として執行対象になり執行官により殺害されることになる。
これは本作のテーマにもなっているのだが、その「シビュラシステム」というものが完璧であるならば法律は必要ないのではないか?
「シビュラシステム」は人間が作ったシステムではあるが、それは生体脳というおそらく実際の脳みそと同じように液性情報を行き来する仕組みによって従来の機械プログラムの論理的な判断だけではなく、もっと不確かで一般的でない思考から解答を導き出すような。
通常理解不能なものを正式解として導き出せる。
つまり通常動機など理解不能な犯罪者の心理もそれで理解できるのではないか?
そこまでのシステムだからこそ犯罪者を予測したり個人の傾向から職業や結婚相手までも「シビュラシステム」が出す結論を最適解として疑うことがないのだ。
これは一種の神の外部化に成功したという事だと思う。
客観性というものを「シビュラシステム」が担保した完璧な管理社会なら人間が論理に情緒を持ち込んだ法律よりも正当性があるのではないか?
しかし、本作ではその完全無欠である「シビュラシステム」によって犯罪係数を測定させないテクノロジーが出てきている。
どんな最悪な犯罪係数であってもその人は犯罪者の認定されないのだ。
で、常守朱である。
彼女は例えば身内が殺されたり、目の前で人が殺されても犯罪係数が上がるような事はない、ことになっている。
主人公だから強靭なメンタルとストレス耐性があるという事で納得していいものなのだろうか?
目の前で人が殺されたり、ましてや身内が殺されたりしたら「相手を殺す」「殺してやる」という感情が出るのが普通なのではないか?
むしろ常守のような人間は情緒の乏しい人間として逆にサイコパスなのではないか?
「シビュラシステム」の問題は犯罪係数が高くなった場合、犯罪予備軍として厚生省の執行官に殺される可能性があるんだが、よくよく考えてみれば犯罪係数が高くなるような他人への殺意があったとしてもその相手を殺すような事態はそうそう起きない筈だ。
それは人間の社会的な慣習やなどの法の遵法意識によるものでもある。
殺意がある人間だから必ず殺人を犯すなどという事はあり得ない。
むしろ常守のように「シビュラシステム」から弾かれた「シビュラシステム」から無印と判断された人間が実は「シビュラシステム」が感知しえなかったサイコパスであるのではないかという疑いが出てくるのではないか。
しかし常守をサイコパス認定にすると普通の人間のサイコパスの基準も上がってしまう可能性もある。
法の支配というのも不完全ではあるが問題は神であろうと法であろうと人間の作り出したものに完璧はないという当たり前の事実だという事にならないだろうか。
今週末は心療内科。